昨日は真澄の誕生日メッセージお願いします/毎日忙しい長女美咲へ

先程は、電話ありがとうございました。
正直す~っかり抜けていました。毎日朝は、06時30分から沙奈お風呂に入れて、御飯食べさせて洗濯物干して、08時過ぎに送って行って、帰って来るのも19時半頃で、それから御飯作って、食べさせて片付けて次ぎの日の準備して、23時過ぎに寝て、先週から利用者さんのお家を回り、様子を伺って、ヘルパーさんの記録書を回収、帰って来たら、実績を上げ、報告書を書き…気が付いたら沙奈の迎えも間に合わずの毎日、更に、今月一杯で訪問介護の責任者が辞める為の引き継ぎありで、さすがにぐったりでした。ご心配お掛けしましたが、お陰様で肋骨の方は、もう違和感無く生活出来る様になりました。真澄ちゃんには申し訳ない事してしまったけど…メールしておきました( ; ; )

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見知らぬ方からの長寿祝いのお礼状

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占部 登久子 様

敬老の日の絵手紙有り難くいただきました。身も知らない私にまでこんな嬉しい心遣い、厚くあつく御礼申し上げます。これまで人様に敬われるようなことは一切してきておりません。ただ、第二の人生に足を一歩踏み入れた時から、障害者の皆様と福間サンテラスで25年間お付き合いさせていただきました。また、NPO法人のころっけで弁当配達のお仕事を6年間、やらせていただき、その時の報酬を全て福間サンテラスとユニセフに寄付させていただきました。段々加齢化するに従い車とも縁を切りました。頭の劣化も進み体力・気力も衰え、世のため人のためと思いつつも、矢張り人の助けが必要な年齢となりました。極力自分でできることは自分でやっているのですが、どうしてもの時は、やさしいお気持ちに甘えているのが現状です。そして一日一日を無駄にしないよう心がけながら有意義に過ごしています。どうぞ占部様も無理をなさらず、お元気で輝き続けられることを願ってご挨拶とします。

〒811-3212福津市福間南2-6-1 内田 豊 拝 

 

愛する次女真澄より返信

一番乗りのメールありがとう〓〓
今日で、54歳になりました!

いい季節に産んでもらってありがとう〓・
ずっと前に聞いたことがあるけど、私が生まれた日は、日本晴れの“真澄の空”だったそうね。お父さんと姉ちゃんが病院へきてくれた時には生まれていて、その時に見た空が澄んでいてとてもきれいだったとか。〓
とってもいい名前をつけてもらったと感謝しています。
いろいろとある人生ですが、付けてもらった名前に負けないように”真澄の心�を持って生きていきたいと思っています。
これからもお父さんも、お母さんも元気で応援してくださいね。くれぐれも身体に気をつけてこれからもよろしくね~!

2017年9月29日 真澄より

愛する次女の誕生日に寄せて

堀川 真澄 様

54歳のお誕生日おめでとうございます。今年の前半は苦難の年でしたが、後半は従業員二人の採用もでき、且つ祥平の結婚宣言がありました。一憂一喜、終わり良ければ、全て良しの諺通りになりそうで、私たちも少し安心しました。また、祥平のおめでたは堀川家同様にお慶びもしました。幸い真澄はきゃしゃな体でありながら、今のところ健康状上なんの心配もないようでなによりです。見かけによらず芯は強いのでしょうね。明るい性格が健康のもとかもしれません。これからも、堀川のお母さんを大事に、姉さんや渉くんとも仲良く、元気で頑張ってください。来年は祥平の結婚が待っていることだし、姑の勤めも果たさなければならなりません。ますます急がしくなることと思います。

それではお元気でご活躍ください。

2017.9.29 記 内田豊・咲子 拝

自己紹介(2017.9.19現在)

自己紹介

福津市福間南二丁目6番1号に住んで56年目になります。内田豊と言います。(1929.10.19北朝鮮咸鏡北道雄基で生まれました)当年とって87歳と11ヶ月、来月は満88歳の米寿を迎えます。第一の目標は満90歳までは頑張り続けたいと願っています。現役引退は平成元年3月31日。その後、福津市の障害者施設の福間サンテラスで障害者とそのスタッフのお手伝いを丸25年間、それと並行してNPO法人のころっけで弁当配達の仕事を丸6年続けて参りました。この弁当配達で支給された手当は、全てユニセフ募金とサンテラスへ寄付(年末に両方併せて24,000円)してきました。加齢化するに従い徐々に体力・気力の衰えが目立ち始め、人手に頼らざるを得なくなりました。3年前に心不全脳梗塞で福岡東医療センターに入院、やっと昨年3月に退院、病院の生活から脱却、今はリハビリと体力の回復を兼ねて、前身のイトマンスイミングスクール古賀校創設から現ブリジストンスイミングスクール古賀校へ足掛け23年通いつめ、メニユーにある、水泳教室に参加しています。生まれてこれまで、気管支炎・喘息・肺結核・肋膜・糖尿病・緑内障と、あらゆる病と闘って来ました。従来右耳の聞こえが悪いのと、ここ4~5年前から物忘れがひどく、自分では認知症が、相当進行していると自負しています。別に認知症を苦にしているわけでもありません。それなり人生を楽しく生きていこうと思っています。本年5月には福間病院で開催された認知症の講座に参加して来ました。手術に関しては上からいくと、網膜剥離・左右両眼白内障・皮膚がん・48歳の時に総入れ歯・その後、左右両肩の腱板断裂の手術・大腸がん手術を乗り越えてきました。第四腰椎すべり症、ベッドでの寝起きが出来ないくらい痛みが激しく、腰椎すべり症の手術が決まっていたのですが、整形外科の医師からその前に、手段としてブロック注射をと言われ、この手術を施術したお陰で、何とか寝起きが自分で出来るようになりました。然しながら、左足大体骨から足の先まで麻痺状態が今でも続いています。病に関しては内科的にも外科的にもデパート並みのオンパレード状態です。自分ながら満身創痍の体、よく持っているものと思います。プールで水泳をやるきっかけは、海水浴で自己流の立ち泳ぎとカエル泳ぎはできていたが、テレビで見たオリンピック、特にクロールは自分もやりたいな、あんな格好の良い泳ぎが出来たなら素晴らしいだろうな、というのがきっかけでした。当初は3ヶ月も習えばプールも辞める積りでのイトマンスイミングスクール古賀校入校でした。1994年6月1日から一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、三ヶ月が経ちました。水泳の奥深さに取り付かれ、これは生涯のスポーツにしょうと決心しました。水泳を続けるのに理屈はいらないし、個人で続けることが可能、そして、いろんな方との出会いが大事ということに気がつきました。指導してくれる先生、フロントのスタッフ、そして水泳のお仲間とも仲良く生涯お付き合いしたいと考えています。命が途絶えるまで頑張って見たいと思います。何卒、宜しく、よろしくお願いいたします。私の血液型はB型です。性格的にズボラというか、なんでもアバウトなので、これといってとことん突き詰めるようなことはしませんが、趣味に関しては欲張りタイプ、浅く広くなんでもはまってみたいのが本音です。好奇心旺盛、性格的には欲張りで、多趣味で浅く広くがモットーです。パソコン、囲碁、写真、映画(洋画)、観劇(歌舞伎・新劇・琉球舞踊)、音楽鑑賞(クラシック・ポピュラー音楽)、美術館、博物館めぐり、スポーツは野球、バレーボール、ラグビー、卓球、ゴルフといずれも若い時は競技に熱中、また観戦するのも大好きでした。定年後はひたすら水泳に熱中し、クロール・背泳ぎ・平泳ぎ・バタフライ・個人メドレー5種目ともチャレンジしていた。今、水泳教室に通い始めて23年目です。可能な限り生涯スポーツとして泳ぎ続けるでしょう。まだやりたいことしたいことも沢山あります。墨絵も習いたい、絵手紙も習いたい、絵画も習いたい、英会話も習いたい、テニスもチャレンジしてみたい。夢はまだまだ終わりません。私の録画したビデオテープ(5000本以上)をDVD化する。パソコンの知識をもっともっと充実させる。料理も本格的に習ってみたい。日本全国をJR鈍行列車でテクテクのんびり周遊してみたい。こんな欲張りな性格なので、一日が36時間は欲しい。今でも1日の睡眠時間は5時間足らず、私に残されている時間はそんなに多くはありません。従って眠って時間を消費するなんて、もったいなくて考えられません。宗教に関しては、神佛は信じていませんが自分のみを信じています。我が家の宗派は曹洞宗と家内に教えてもらいまし。また、家内から勧められ、毎朝ご先祖様の前でお祈り「南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・・・」「天災・人災で亡くなった方と知人・友人・親戚の亡くなった方に南無釈迦牟尼仏・・・」「新原・堀川家のフアミリーと私たちの健康と平和を願って、南無釈迦牟尼仏・・・」「綾華・脩平・沙奈・祥平・煌大たち孫とひ孫の前途が順調でありますように南無釈迦牟尼仏・・・」「東日本の大津波・日本全国の大震災・大水害の復興が一刻も早く復興しますように南無釈迦牟尼仏・・・」「最後に世界の平和を願って南無釈迦牟尼仏・・・」と唱えています。「出来ることを出来るときに、出来る範囲で」また「人の世話になるより人のため、世の中のために」と心がけてきました。気持ちの上では他愛もないささやかな欲望ですが笑わないでもらいたい。最後に、残る余生を元気で楽しく送りたいと念じておりますが、さらなる願望は可愛い孫と曽孫たちに、明るい未来が訪れてくれるよう願っています。             2017.9.19記 内田 豊

楽しかった夏休み2017.8.16

皆様お元気で帰省されましたか、お疲れ様でした。この度は、お忙しい中、遠路はるばるお越し下さり有難うございました。一歳半の煌大君も元気に成長し、皆さんを楽しませてくれました。また、仁美さんは初めてお出で頂きとても嬉しかったです。来年も是非お出で下さるよう、お待ちしています。さて、8月12日~8月14日の、福間滞在は如何でしたか?私たち老夫婦は精一杯おもてなしをした積りでしたが、至らなかった面はご勘弁願います。狭いながらも本当に楽しいひと時でした。美咲がベランダで転倒し、腰部を痛めたことが残念で、少し気がかりです。早期回復を願っています。

 さてさて世界の情勢は、北朝鮮金正恩朝鮮労働委員長の、ミサイル計画の発表VS米国トランプ大統領の応対が世界を緊張感に走らせました、然し、いずれも緊張緩和を求め、ひと休憩状態で、このお盆の時期は何事も無く幸いでした。皆様がご出発された8月15日は、72年前、昭和天皇がラジオ放送で(2045.8.15pm12.00)大東亜戰爭の降伏を宣言した終戦の日でした。もと、海軍特攻隊員(当時19歳)が残した遺言から「大君の/御楯となりて/すつるみと/思えば軽き/我が命かな」と大義のために死ぬなら悔いはない。また、海軍特攻隊員(当時23歳)京都大生が学徒出陣で残した日記より「愚劣な日本よ 優柔普段なる日本よ 汝いかに愚かなりとも 我らこの国の人たる以上 その防衛に奮起せざるをえず オブテイミズム(楽観主義)をやめよ 眼を開け 日本の人々よ 日本は必ず負ける」と赤紙一枚で召集され、「愚劣な日本」と書き残し、国のためにと命をなげうった。(赤紙とは召集令状、当時1銭五厘の切手の赤色の郵便葉書のこと)このようにお国のためにと、悲惨な戦争に命を捧げた人が310万人。その中で、まだ過去の戦地や・海の底から帰って来ない遺骨は65万柱、咲子の父もそのなかの一人です。戰爭とはこんな無残なというか、無謀というか深く反省すべきです。これを引き起こすのも人間であることを忘れないで欲しいと思います。そして若い人たちは後世に言い伝え、現役の皆様はこのことに深く考えを及ぼし、一人でも多くの共鳴者を増やして頂きたいとお願いいたします。 最後になりましたが、来年もまた楽しいひと時を過ごしたいと願っています。2017.8.16記 内田 豊・咲子